166 許される利益

昔から予感だけあって実際には手をつけられずにいたことが静かに近よってきて、体の中に入ってくるのを感じています。新しい出会いのようでそうではなく、よく知っている道を再び歩き、故郷の水をのむように、すんなり受け入れられるので不思議です。今だからこそ、だと思います。もう少しでも早ければはねのけていたようなことが、今ならできる、そういう時期が来たようです。抽象的だったイメージに、形がついてくるのはうれしいのですが、ただ、ここまで来て、ある恐怖がちらつきます。要するに、これは確実に正しい道であるとか、絶対に安全であるとお墨付きのもの以外に踏み込むことが、心配性の私にとっては、非常におそろしく、それが自分にとって楽しく快適で安心できる、親和性をもっているものであっても、やっぱり不安になるのです。でも、世の中に私が満足できる‶お墨付き”のものなんてそうありません。ほとんどのものは恐ろしい部類に入ってしまいます。正解のものとは何なのか。聖書だってコーランだって怖いのです。それは人間の手で書いたものに違いないからです。 私は生まれつきといっていいレベルではっきり正解の神を持っていました。正解の神のいる家で育ちました。だから、その神の庇護下であれば安心できました。その中にだけいれば、ということです。これは、自分のホームグラウンドから出た。外の世界をよりよく知るようになってから、はっきり自覚したことではありますが、自分で判断するのが怖いのだと思います。私の中にいる主は、私が判断する前にもう私の中に入っていて、私がどうこう考えるレベルをすり抜けてそこにおられたので、この地球で暮らすのに、必死になって太陽を探して持って来る必要などないように、私は光のあるところに生まれてそのまま生きてきたのです。外の世界から、誰かが、それは光ではないとか、おかしいとか、いろいろ言っても、ぜんぜん関係なしにです。だから、自分がこんなに世界中のもろもろの物事に対して、心配性で、疑い深く、また、判断ができないということに、これまで気づかなかったんです。今となって、何をするにもひとつひとつおそろしい気がするのです。まるでばいきんを気にして身の回りのもの全部を拭こうとする人みたいです。こんなに神経質でどう生きていくのだろうと思います。もっと深いレベルで言うと、道を踏み外した、自分あるいは、自分かのように感じるくらい近しい誰かに対しての感情がまだ影のようにつきまとっていて、正解から外れることへの恐怖を引きおこしています。はっきり言うと立ちなおれていないのです。あるいは、自分が悪かったのだといって反省のふりをして、まだ浄化できない自分の中の攻撃性を、自分自身に向けるところから抜けられないのです。 まだ許されていないと強く思っています。こういう感情のまま、宗教に出会い、たとえばイエスや、あるいは他の神の名を呼んだとしても、その存在が罪をゆるしてくれるとして、ゆるす存在ゆるされる恩という形に対して、それこそが信仰だと思い込むことがよくあります。ところがこれだけでは信仰ではないと思います。これは形を変えたギブアンドテイクで、許されたという気持ちが欲しいだけだからです。自分で自分を許すことはすっかり諦めて、許してくれる存在を求めさまよい、見つけた気になってのめりこんで甘えているという形です。許してくれる存在を見失えば、また元通りですから、そうなると苦しいところに戻ってしまうので、そうなるまいとして、依存性が強くなります。神の許しの力を軽んじているつもりはありません。本当は立ちなおれていないのに、立とうとすることを放棄して神頼みしていては、いつまでも本来の力が出てこないという話です。また立ち上がるための力を神は与えてくださいます。でも、その力は自分を通して発見される。本当の信仰は、神の一部分の表現である自分自身を発見させます。