何かを成し遂げるには何かを捨てなければならないと
聞き飽きるほど言われてきました。
言葉は言葉だけでは不完全で
言葉があなたの中に入ったときに
それは本当の言葉になる。
たとえば、誰かを罵倒する言葉が
人を殺すほどの鋭い言葉にも変わり
また一方で愛しているという言葉にも変わるように。
誰にも心という自由があるから解釈は無限にできます。
たとえば、
何かをするなという禁止が
苦しみの強制とか
刑罰みたいなものを
意図しているわけではないのですね。
あなたが、神はなぜ我々に苦しみを与えるかと問うとき
これ以上なにかを背負えないと憤るとき
苦しいのはあなたの世界観なのですね。
嫌だと思ったことがあったね、苦しかったことがあったね、
それをそのままに受け取らず、自覚なしにでも、
恨みつらみとしてたくさんコレクションしていくと、
その荷物の重さで、世界観が苦しくなっていきます。
世界観が我慢だけになっていきます。
食べたもので体が出来ているのと同じで、ずっと心の中に持っているもので世界観が出来てきます。
そして、
成し遂げるべきこと、と聞いただけで
あなたがやりたくもないことを、無理やりにやらされ、また我慢させられるように
思います。
あなたが成し遂げることは、あなたが進む道のことですから、
意志に反する命令などではありませんね。
神聖な仕事をする者であっても、ある時それが自らの使命だと悟り、自分から授かり、その仕事をするわけですね。
無理やりさせられるわけではありません。
大きくならない宇宙がないように、どこにも進まない人間はいない。
すべての人間が、その人の道にとっての前に進んでいくので、
前に見えるものは人によって違うけれど、何かが見えているには違いありません。
その、今見えている何かに向かって進むとき、
当然ながら、そのために必要なものと、そうでないものと、そこそこなものと、
そういうふうに、順番がついていきます。
そうしないとぐちゃぐちゃになって進めないからですね。
この世的な常識とは別の何かを得ようとしてる人にとって
世俗的なものの順番が下がってしまうのは、自然なことで、これは、進みたい方向に対してスムーズな道を整備しようとする働きです。
ただ、この整備は自分で自覚するから進むことで、
他人から手を加えられると、またぐちゃぐちゃになります。
その人にとって本当の優先順位が何なのかというのは、他人に簡単にわかることではありません。
だから、あくまで、何かから支配されるのではなくて、
自分でその流れをととのえ、
本当の流れ、本当の順番をととのえていくように暮らしていくと、
勝手に余計なものがこそげ落ちていくように感じるでしょう。
そして余計なものたちは
本当は一人一人にとって違う意図があっても
同じような共通項をもつ人々が自然と集まってきたときや
その時代にとって共通な順番に対する意図があるときや
たくさんの事情を通ってきて可視化します。
これはしないほうがいいとか、目に見える形で規律になったり道徳になったりします。
これを、可視化したものから逆に取り入れようとするとき、
それはあなたの持つ世界観によっては、あなたの流れをととのえるどころか、その逆になってしまうことも起り得るのです。
各々にとっての本当の果実が何か考えないといけません。何を求めているのかを。
それが分かっていれば、その他のことはあまりこだわらなくてよくなるんですね。
本当に求めているもの以外は、多くのものが得られないのは、少しばかり残念でしょう。遊べば勉強ができませんし、勉強すれば遊べなかったりします。
でも、多くのものは余計なものですから、
本当はどうだっていいんだ、と思います。