128 禁欲と我慢について

何かを成し遂げるには何かを捨てなければならないと

聞き飽きるほど言われてきました。

言葉は言葉だけでは不完全で

言葉があなたの中に入ったときに

それは本当の言葉になる。

たとえば、誰かを罵倒する言葉が

人を殺すほどの鋭い言葉にも変わり

また一方で愛しているという言葉にも変わるように。

誰にも心という自由があるから解釈は無限にできます。

たとえば、

何かをするなという禁止が

苦しみの強制とか

刑罰みたいなものを

意図しているわけではないのですね。

あなたが、神はなぜ我々に苦しみを与えるかと問うとき

これ以上なにかを背負えないと憤るとき

苦しいのはあなたの世界観なのですね。

嫌だと思ったことがあったね、苦しかったことがあったね、

それをそのままに受け取らず、自覚なしにでも、

恨みつらみとしてたくさんコレクションしていくと、

その荷物の重さで、世界観が苦しくなっていきます。

世界観が我慢だけになっていきます。

食べたもので体が出来ているのと同じで、ずっと心の中に持っているもので世界観が出来てきます。

そして、

成し遂げるべきこと、と聞いただけで

あなたがやりたくもないことを、無理やりにやらされ、また我慢させられるように

思います。

あなたが成し遂げることは、あなたが進む道のことですから、

意志に反する命令などではありませんね。

神聖な仕事をする者であっても、ある時それが自らの使命だと悟り、自分から授かり、その仕事をするわけですね。

無理やりさせられるわけではありません。

大きくならない宇宙がないように、どこにも進まない人間はいない。

すべての人間が、その人の道にとっての前に進んでいくので、

前に見えるものは人によって違うけれど、何かが見えているには違いありません。

その、今見えている何かに向かって進むとき、

当然ながら、そのために必要なものと、そうでないものと、そこそこなものと、

そういうふうに、順番がついていきます。

そうしないとぐちゃぐちゃになって進めないからですね。

この世的な常識とは別の何かを得ようとしてる人にとって

世俗的なものの順番が下がってしまうのは、自然なことで、これは、進みたい方向に対してスムーズな道を整備しようとする働きです。

ただ、この整備は自分で自覚するから進むことで、

他人から手を加えられると、またぐちゃぐちゃになります。

その人にとって本当の優先順位が何なのかというのは、他人に簡単にわかることではありません。

だから、あくまで、何かから支配されるのではなくて、

自分でその流れをととのえ、

本当の流れ、本当の順番をととのえていくように暮らしていくと、

勝手に余計なものがこそげ落ちていくように感じるでしょう。

そして余計なものたちは

本当は一人一人にとって違う意図があっても

同じような共通項をもつ人々が自然と集まってきたときや

その時代にとって共通な順番に対する意図があるときや

たくさんの事情を通ってきて可視化します。

これはしないほうがいいとか、目に見える形で規律になったり道徳になったりします。

これを、可視化したものから逆に取り入れようとするとき、

それはあなたの持つ世界観によっては、あなたの流れをととのえるどころか、その逆になってしまうことも起り得るのです。

 

各々にとっての本当の果実が何か考えないといけません。何を求めているのかを。

それが分かっていれば、その他のことはあまりこだわらなくてよくなるんですね。

本当に求めているもの以外は、多くのものが得られないのは、少しばかり残念でしょう。遊べば勉強ができませんし、勉強すれば遊べなかったりします。

でも、多くのものは余計なものですから、

本当はどうだっていいんだ、と思います。