172 水のように
私の姿は
目に見えないのです。
だから
あなたに
なんの言葉もかけられなくって
あなたのことを
抱きしめることもできないのです。
だけど
私は
水のように
様々な形に姿を変えて
あらゆるものの中に
流れることができるのです。
実はね
昨日あなたが友人からかけてもらった
言葉の中に
私が入っていたのです。
あなたが
美味しいなと思って
食べたものは
私が
美味しく感じるように仕組んだのです。
あなたの身体を暖める毛布のなかにも
どうか寒くないようにとあなたを想う
私がいるのです。
気づいてしまった?
愛は
諦めない。
あなたを
ありとあらゆる方法で愛することを
あなたが失った心が
復活することを
あなたの心の扉を
開くことを
諦めない。
私は
あなたの周りの
すべてのものに
姿を変えては
循環しつづけます。
愛は循環であり
循環とは流れていることです。
それは
常に水のように
流れているのです。
171 秩序の女神
順番の神さまが
本当にいて
わたしのそばにおられるのならば
お願いごとは簡単で済む
どうか
順番を整えてください
どうか
みんなの順番を揃えてください
彼らの
順番を整えてください
ただ
それだけを祈るのです
順番の神よ
あなたは水の神です
あなたは
流れを司る神です
あなたは
流れそのものです
わたしを
わたしたちを流してください
すべての滞りは
崩れ
あふれても
やがてきれいに
整うものです
すべての澱みは
流れていくのです
順番の神さまよ
大きな
河よ
流さなければならないものを
すべて
流してください
大きな
流れよ
上から下へ
然るべきところから
その次の場所へ
順番どおりに
それは流れるのです
わたしは
それを手伝いたいと思います
あの子の流れよ
彼の流れよ
それは
どこかで
詰まっていないか
流れないところが
あるのではないか
流れますように
流れますように
この祈りが
たとえ
一時的な痛みを
おこしても
次の日にはきっと
穏やかな流れにもどるでしょう
そして
それまで
見たこともないような
清流を
わたしは
みたいのです
170 思い出せ
思い出せ…
思い出せ
思い出せ
思い出せ
一度すべてを忘れても
忘れたままで構わないことと
時が来れば
思い出すことがある
思い出すべきことがあるなら
そして
それをまだ思い出せないままで
いるなら
思い出せ
思い出せ
思い出せ
思い出せ
そのとき
それを受け入れられるだけの強さをください
すべて理解して
それでもここに立てる自信を
ください
受け止められる力を
ください
169 順番について
精神に流れと順番があるように、生活にも順番があるのです。人生にも、 生活の集積として、順番があるのです。あたりまえのことのようでも、毎日のこまごました時間の使い方となると、そこまで意識できない人がほとんどのようです。もちろん心の順番を整えることも一緒にやらなければ結局すべて滞ってしまいます。だけど、自分の中身が順序よく、整ってきたら、つられて、現実の生活も順序がかわって当然ですし、 流れをおかしくしてしまう物事は、心の中の整理と同じように、落ちこぼれていくからこそ捨てざるをえないのです。駄目なことだからやらない、禁止されているからやらない、褒められるからやる、優秀になれるからやる、何かを得られるからやる、こういうふうにしているならドレイの生活のままです。順番の神さまはこまごまと人に命じたり裁いたりはしません。順番の神さまは順番を整えることだけを命じます。
168 ニャアについて
ニャアは、私の学びの段階によって、その姿を変えてあらわれる。というより、ニャアの本当の姿は、もっともっと大きいのに、今の私にみえる範囲でしか、 みることができないのだ。今、ニャアは、私がいつぞやかの古い昔に のみこんで、身の中の奥深くにまで入ってしまった毒をとるように働きかけてくれている。自分で解毒できない毒はない。人が健全に生きていくうえで、毒になるのは、生きること自体を罪深くつらいものかのように思わせる、 生きながらにしてその人を生から遠ざけるような思想、洗脳、教えの類 である。人は、生きるために生まれてきた以上は、力強く、健全に、まっすぐ生きようとする力でもって生きる義務がある。その力を弱らせて、なくしてしまうものが毒である。目に見えない真実というのは、あなたに生きる力を与えるためにこそ開示される。それが逆の方向に、毒として働くのならば何かが間違い、何かがねじれ、何かが病気なのである。
167 下手な愛による遊び
私はまた
怒っていました
言葉の伴わない愛は
がらくたで
行為のない言葉は
大嘘という罪悪で
誤解させ
不安にさせるような
そんな愛なら
ない方がましなのだと
跳ね除けました
だけど
愛は愛でしょう
私が区別して
正確に
値踏みできるような
価値のある愛と
価値のない愛
また
良い愛と
悪い愛
そんな違いはなかったのです
人が誰も
完璧ではないならば
人は誰も
完璧な愛し方も
できずに
時には
言葉に出せず
何の形にもできず
伝わらず
跳ね除けられるような
下手な愛し方を
しながら
遊んでいるのでした
そして
私にとって愛の区別とは
受け取れたか
受け取れなかったか
気づいたのか
分からなかったのか
でしか
ないのでした
166 許される利益
昔から予感だけあって実際には手をつけられずにいたことが静かに近よってきて、体の中に入ってくるのを感じています。新しい出会いのようでそうではなく、よく知っている道を再び歩き、故郷の水をのむように、すんなり受け入れられるので不思議です。今だからこそ、だと思います。もう少しでも早ければはねのけていたようなことが、今ならできる、そういう時期が来たようです。抽象的だったイメージに、形がついてくるのはうれしいのですが、ただ、ここまで来て、ある恐怖がちらつきます。要するに、これは確実に正しい道であるとか、絶対に安全であるとお墨付きのもの以外に踏み込むことが、心配性の私にとっては、非常におそろしく、それが自分にとって楽しく快適で安心できる、親和性をもっているものであっても、やっぱり不安になるのです。でも、世の中に私が満足できる‶お墨付き”のものなんてそうありません。ほとんどのものは恐ろしい部類に入ってしまいます。正解のものとは何なのか。聖書だってコーランだって怖いのです。それは人間の手で書いたものに違いないからです。 私は生まれつきといっていいレベルではっきり正解の神を持っていました。正解の神のいる家で育ちました。だから、その神の庇護下であれば安心できました。その中にだけいれば、ということです。これは、自分のホームグラウンドから出た。外の世界をよりよく知るようになってから、はっきり自覚したことではありますが、自分で判断するのが怖いのだと思います。私の中にいる主は、私が判断する前にもう私の中に入っていて、私がどうこう考えるレベルをすり抜けてそこにおられたので、この地球で暮らすのに、必死になって太陽を探して持って来る必要などないように、私は光のあるところに生まれてそのまま生きてきたのです。外の世界から、誰かが、それは光ではないとか、おかしいとか、いろいろ言っても、ぜんぜん関係なしにです。だから、自分がこんなに世界中のもろもろの物事に対して、心配性で、疑い深く、また、判断ができないということに、これまで気づかなかったんです。今となって、何をするにもひとつひとつおそろしい気がするのです。まるでばいきんを気にして身の回りのもの全部を拭こうとする人みたいです。こんなに神経質でどう生きていくのだろうと思います。もっと深いレベルで言うと、道を踏み外した、自分あるいは、自分かのように感じるくらい近しい誰かに対しての感情がまだ影のようにつきまとっていて、正解から外れることへの恐怖を引きおこしています。はっきり言うと立ちなおれていないのです。あるいは、自分が悪かったのだといって反省のふりをして、まだ浄化できない自分の中の攻撃性を、自分自身に向けるところから抜けられないのです。 まだ許されていないと強く思っています。こういう感情のまま、宗教に出会い、たとえばイエスや、あるいは他の神の名を呼んだとしても、その存在が罪をゆるしてくれるとして、ゆるす存在ゆるされる恩という形に対して、それこそが信仰だと思い込むことがよくあります。ところがこれだけでは信仰ではないと思います。これは形を変えたギブアンドテイクで、許されたという気持ちが欲しいだけだからです。自分で自分を許すことはすっかり諦めて、許してくれる存在を求めさまよい、見つけた気になってのめりこんで甘えているという形です。許してくれる存在を見失えば、また元通りですから、そうなると苦しいところに戻ってしまうので、そうなるまいとして、依存性が強くなります。神の許しの力を軽んじているつもりはありません。本当は立ちなおれていないのに、立とうとすることを放棄して神頼みしていては、いつまでも本来の力が出てこないという話です。また立ち上がるための力を神は与えてくださいます。でも、その力は自分を通して発見される。本当の信仰は、神の一部分の表現である自分自身を発見させます。