121 泣いたとしてもよくて

常々私を苦しめている、この現実の薄さが、またある意味では、知らずしらずのうちに、私を救ってもいるのだと気づく。
もう何もかもが視えなくなり、なんの訳もわからなくなったとしても、誰かがどこかで大丈夫だとささやいてくる。私は根拠がない言葉に馴れている。現実味がないことに馴れている。だからきっと受け入れられる。元来の苦しみとひきかえに、曖昧で幸せな世界と近くいられているのだと思う。

見えない世界がこのリアルに随従しているわけではないんだよ、と、誰かが言う。
現実をよくする、あるいは、現実がよくない、という言葉の意味が彼らには分からない。
何がよくなくて、何がよいのかは、あまりにも人間的な、歴史の中で積み重ねられた考えでしかない。

どうなったら不幸なのだろう?
幸せとは思えないことが不幸で、
幸せだと思えることが幸せで、
それ以外の細々したことは、適切な順番に、適切な配置に、ただ在るのみである。

「大丈夫、大丈夫、これはゲームみたいなものだから。
希望をとるゲームだから。
光明をとり、自愛をとり、誰かのためをとり、適切をとるゲームだから。
深い意味はないから、大丈夫、大丈夫。」

それはあなたにとって最適につくられたゲームだから。
意図を汲むようにやってみなさい。

余計なことに気を取られないように。