88 20220412 ふつうになるための道のり

いつもありがとう。
少し前までは、この4月は一部の人にとっての4月で、学生でも会社員でもない自分には関係ないと思っていたけど、違うんだね。ずいぶん新しい動きをし始めています。つい、つい、ひとつひとつのあれこれが、前のバージョンと違うので、戸惑ってしまいます。あぁ、こんな細かいところも違うのか、と。えっと、身体の感覚を、もっと取り戻していけそうです。今まで曖昧に誤魔化していたところが、すっきりしてきて、気持ちがいいですね。疲れやすかったり、落ち込みやすかったりするけど、たぶん元々そうなんです。見えてきたほうが幸せなんです。不幸であってもいいという話ではなくて、自分の姿が視えて安心できるという意味で。
立派になりたいとか、役に立つようになりたい、苦しんでいる人を、助けなければいけないと、行動する人たちがそこらじゅうに見られます。努力して何かに取り組んでいる人たちがいます。人のためにと素晴らしい仕事をしている人たちがいます。何かを成し遂げたり尊い成果をあげたりする人がいます。とても素晴らしくて、私はそういう人たちを尊敬し、感化される一人でもあります。ところが自分ひとりの生き方の話になったとき、そのような立派な姿みたいなものを、一切無視しないといけない気がする。努力は素晴らしいですか?問題は、どのような目標のもとにどのような努力を、どのようなつもりで取り組むかではないですか。私はどうしていけば幸せになるのですか。私しか知らないことなのではないですか。そういうことが悔しくて、悲しくなったりするんです。私は苦しんでいる人を無視したいわけではないんです。人の役に立ちたいと思わない人間なんて本当はいないんです。要は急ぐことができないことや、直接的な行動をできない自分が言い訳がましく感じて嫌なのだと思います。それなのに結局自分が納得することしか出来ないではないですか。みんなとは言わずとも、8割位の人間が、それは偉いね、頑張っているね、と、立派なように認めるほうに努力して、納得できたなら、どんなに楽だったかと思ったりするんです。だけどこの子の世界観がそうではない、そうではないと言っていて、気がついているぶん、悲しくなってしまうし、考えすぎてしまったりもするんです。
あのね、もう一切、イリュージョンの中のやり方に沿わなくてもいいと思ったんです。というのは、既存のもので使えるものが全然ないんです。既存のものっていうのは、結局今まで生きてきた誰それが作ってきた仕組みなので、それは叡智とも言えるのだけれど、この子にとってしっくり来て使えるものが少ないのです。だからイリュージョンの中で使えるものを探すことにこだわらなくてもいいと思ったんです、努力というのは、自分のイメージと直感に沿うように、そういう方向に努力したいと思ったんです。この世界では、何かのスキルを身に着けたいと思ったとき、たとえばいくらかお金を出して、習い事のスクールに行ったりだとかしますよね、それは時間のとお金の切り売りと、誰かにととのえてもらった学習プランの飲み込みなわけですね。じゃあ、どのスクールが自分に合うのかとか、そういう姿勢がまず能動的ではないわけですよね。たとえばら2つか3つの選択肢しかない、その中から選ばないといけないというのは、目に見える世界しか見ていないから、選択肢がそれしかないように感じるだけですよね。自分に訊いてみたら本当はもっと無限に広い感覚があるわけです、だからそんなに縮こまらなくても、あなたにしっくり合うやり方はあるから大丈夫ですよ、それを見つけるためにも嗅覚を常に常にクリアに、通信の良いようにしておいたほうが幸せに生きられますよという話ですね。
あー、ふつうになりたいな、って思うでしょ。自分にとってのふつうを目指してね。そういう話。