100 完全

君がそれでいいというのなら本当にそれでかまわないんだよ。

澱んでいたところが流れるようになって、きれいな水で洗われるように美しくなって、ずっと変わらなかったものが変わっていって、ずっと満たされなかったのに、はじめて満たされる。そういうことのために生きているんだと思ったりするんだよ。
ぼくは正確に、まっすぐでいたいから。嘘ではなくても色々とコーティングされたり、翻訳された生き方や、仕事や、現実に、気がついてしまったら、見ていないではいられない。感じてしまったということは、そういう意味だ、無視をしないで見なさいということだ、だって本当に翻訳の中のままで生きていたほうがよいのなら、翻訳のことに気がつきすらしないはずじゃないか?
気がついてしまったならそちらに歩いていこう。そういうことに幸せを感じるんだ。
まだ、まだ、この感覚に名前がつかないの。どんな日本語でも伝えられない気がするの。じゃあ、アートなら? 音なら? 動きなら? どう"在れ"ば? これは研究みたいなものだとも感じているの。

「楽になったのかな」「大丈夫になったのかな」ってずっと思っているよ。誰が、誰に向かって?ってたずねるのは、粋じゃないよ。
もう大丈夫かなって、どうか大丈夫でありますようにって、ずっと祈っているんだよ。
祈っているから、そして、もっと祈りたいから、その気持ちをもっと織り込んでいくんだよ。重ねていくんだよ。薄い布をかけていくんだよ。この活動に生も死もないじゃないかって、思ったりするんだよ。じゃあ、生をどう捉えたらいいか。生が鮮やかなのはいつか死ぬからですか? 今が楽しいのは人生一度きりだからですか? それもひとつの答えだと思うんだよね。でも、ぼくはね、生も死もないから生が鮮やかなんだって思う。生も死も同じようなものだって思う、あんまり変わりはないって思う。だからこそ今この瞬間に、あなたが生を"チョイス"して、今ある在り方を"チョイス"している、本当に自由な、無限の可能性のなかからの、あなたのオリジナリティ、創造性でもって描く、あなた自身の生が鮮やかにみえるんだ、って思う。

さて。ココの自分の中には本当に色んな子がいてさ。どの子も愛しいってわかる、感じるようになった。で、もっと感じたいなぁって思う。毎日がにぎやかな、なんていうか、大家族みたいで、あたたかだよねえ。得意なことはそれぞれでも、みんな可愛らしいからね。アクセスできるのはほんの一部なんだろうけど、引き出しが増えていくのは嬉しいよね。ある人との出会いや、ある場所との出会いや、ある経験が、もっとたくさんのアクセスを可能にする、トリガーになり得るらしい。そういうのってわくわくする。何気ない会話、何気ない一日でも、その中にトリガーはあったりするらしい。何かの経験をしないで生きていくことはできない。たとえ寝たきりでも、経験は溜まってゆくからね。生きているだけでコインがざくざく貯まるわね。
いつもいつも聖人でいることはできない。でも、だってそれも楽しいじゃない。

ずっと待っててくれているみたいだけど、何が待っているのかしら? 素敵なものだといいなぁー、いや、私が素敵なもののほうに行っているんだから、素敵なものが待っている、安心の光が待っている。これは決まってしまった。決まってしまったから、まっすぐ行くのも退屈だから、たまに道草しながら歩んでるの。歌いながら踊りながらね。
あの子もそれでいいみたい。
早く来いなんてこれっぽちも思っていないんだとさ。
なんだぁ、それならよかった。
もう、気がかりなことが一個もなくなっちゃったよ。
あーあ。