134 紅葉の記憶

 

ありふれて贅沢で

何でも手に入るこの時代で

快適なことを、快適だと、喜んで感じて

おいしいものを、おいしいなあと、喜んで食べて

優しい隣人たちと、一緒にいられるこの時間を

幸せだなあと喜べる。

そういうことができたらよかったのに。

それだけでよかったのに。

それなのに、根本から、喜びの綱を切られ、

電力を切られたように、感じられなくなってしまった。

 

ああ、そうか、

それなら感じなおせばいいのか、

今からだって、やりなおせばいいのか。

 

それにしたって、

ずっと私はどこかに行っちゃって、

まだ、どことなく、

失われたようでいる。

 

今日だって、この季節、

木の葉が黄色く枯れて、地面へたくさん落ちてくるのだけど、

まるでそんなものは初めて見たかのように、

面白いなあと思うとともに、

今日までの毎年、毎年、

この時期にはこの光景を見ていたであろうことを、

覚えていないことにぞっとしてしまった。

ああ、魂が抜け落ちていたに違いないと思った。

 

毎日、何を思って歩いていたんだろう?

何かが見えていても、何も感じていなかったようだと思った。

それとも、来年になれば、同じように今のことを、抜けがらのようだったと思い起こすんだろうか?

分からない。

それなら、私はいつになったら戻ってくるんだろうか?

 

私から何かが抜け落ちていったのは、

この世に生まれて、

現実をみて、人をみて、社会をみて、

その平均と普通と常識をみて、

とてもではないが、それが私の感覚とは違っているように感じて、

本来の自分の感覚を自分ごと切り落とさないと、

これからまったく生きていかれないだろうと、

心よりも先に、

頭脳が意思決定してしまったからだった。

切り落としたあとは、違和感は少なくなって、

「まあ、この世界は、そうなんだな、分かるよ。」

と、折り合いをつけることが容易になったように感じられた。

自分が楽になるというだけでなくて、家族のためにも、

そうやって折り合いをつけられることが重要だった。

そうして、その代わりに、

どこか体の重要な一部分を落としてきたようなままで生きることになったし、

形容しがたい機能不全が、亡霊のように私に憑いてまわることになったんだ。

 

何度も、何度も、思い起こされる感情がある。

それはとても激しくて、熱くて、刃のようで、

時に人のことも自分のことも傷つけるけれども、

何かを護りたい気持ちの凝固したような、

何かを叶えられない恨みつらみを練りこんだような魂。

それを正しいかどうか、よいものかどうか、

いちいち断罪する権限は自分にはない。

だけど、自分の持っているもののなかで、

一番大切にしてきたものが、

この魂だとすると、

今はまだ置いてけぼりにしたままだけれども、

「いいよ。それを使いなさい。それがあなたにとって一番いい。」

という許可を、私はずっと待っている。

まだ、去年のことも明日のことも分からないような、

薄ぼんやりした脳みそのままだけれども、

いつか抜けがらになったときから、今まで、ずっと待っているんだ。

 

火をつけよう。大丈夫だから。

爆発しやしないかと、ずっと火をつけられずにいたけれど、

もう大丈夫、燃えていい。

背景は黒でいい。綺麗な炎は夜に映える。

きっと白百合と同じこと。