147 涙のわけ

私が滅多なことで泣いたりしないことくらいあなたは知っているでしょう。それでも毎日のように涙を零したい、そのこともあなたは知っているでしょう。

もちろん誰の前でも泣くわけじゃない。泣くなら一人で泣いたっていい。でも、一人で泣きたくない時があるから、泣かせてもらえるって信じているから泣くんです。あなたならこの涙を変なふうに取り扱ったり色やラベルをつけたりしない、そのまま流させてくれるって信じているんです。

だから泣かせてください。毎日だって別にいいでしょう。そして聞いてほしいのは、私が本当に、いかに愚かか、そしてそう感じるのを留められないのもまた愚かかってことなんです。

何もおっしゃらなくて結構です。でも分かるでしょう。私がどれだけ許すとか罪とか愛とかって言葉を聞いたり学んだりそのことで思い悩んだりするのにエネルギーを注いできたかって。

それらの言葉というのは私のこれまでの尽力くらいではどうにもならないくらい途方もないのです。こんなに途方もないのに、一体誰が簡単な一言の単語を、漢字を、貼り付けるようにあてがったりしたのか、苛立ちすらするくらいです。

実際私はなんにも分かっていないのです。何か思っても言い返さないでください。本当になんにも分かっていないんですから。

大司教みたいな偉い人が私に、許すことを学ぶように言うのです。それはそう聞いた私がすぐに連想するように、誰か特定の人の暴力的な行動や、言葉や、立ちふるまいを寛大に受け止めることや、高貴な目的のために受けた痛みを受け入れる、そういう類のものではないのです。一人の人間が犯す罪のようなものについての話ではないのです。

許すことは、選ぶことを放棄して受け入れることや、ただ放任することとは違います。もっと能動的な行いなのです。それは終わりにすることです。恨むことを止めるという行動なんです。

私が誰かをそれほどまでに恨んでいるとお思いですか。私自身は、率直に、まるで心当たりがないというような顔をしてしまいました。それこそが、私がいかに愚かであるか、それを示す証拠でもあるのです。

だって心に聞けば分かります。私が、恨みなど知らないと言うとき、それが本当ではないことくらい、心のざわめきで分かります。

さあ、この心は恨みを知っています。それは誰かへのものではありません。人の顔が浮かぶわけではありません。そうではないのに、私は恨みつらみを知っています。それは毎日、毎日、生きていくために、生きていくあいだに、塵を集め続けるように溜まった、少しずつのつらさの集積なのです。毎日のように泣かないといられない、もう慣れきった悲しみを引き起こさせる何かへの恨みです。そのひとつひとつには実体はないのに、集まってきて影のように私についてきているのです。そして、あなたも知っているように、これは現在も進行し続けているものです。ですから、私は反論しました。今痛いのはすぐにどうにかできるようなものではないと言いました。いくらか昔の痛みや傷には光を当てられるけれども、今続いているものはさてどうだろうと思いました。この自分の愚かなことにも溜息が出ました。だって、それならば、はるか昔から持ち越してきたような重荷を癒し、許しの光を与えたのは、私の行いではなく、時間という神からの贈り物によってではないでしょうか。そうだとしたら、恨むとは、許すとは、一体何で、どうすることを言うのだろうと思うと、自分のあまりに馬鹿なのが悲しくてどうしようもなくて、また泣きたくもなるのです。どうかまだ何も言わないでください。こうやって泣くのは毎日つらく悲しいからで、でも、それは私が許す必要があることなんです。本当はこんな話をわざわざしたくなんかないって分かってもらえますか。でも、今日は言いたくてたまらなかったんです。こんな時は慰めてほしくはないですし、褒めたり応援したりしないでいて、本当に何だとも思わないでいただきたいです。それならば相手は誰でもいいというわけではありません。これはあなたにしか話さないのです。あなたじゃなくちゃ駄目だし、あなた以外に絶対に聞かせたりしない。だから今ここにいるわけでしょう。こうして泣きそうな気持ちのままでも、安心していられるのでしょう。