165 百人力

いつか泣いていたのは、痛いからだった。誰かが痛そうなときにも、自分まで痛い気がして泣いた。今、痛みがないのに泣くのは、なぜだかよく分からない。嬉し涙はまだ出ない。

手足が震えるような気がする。ただ目に見える生活の不安というだけでは、説明がつかない。大きな秘密に立ち向かうことが恐ろしい。

しばらく前から、痛みは消えていたらしい。痛みがなくなったら、痛んでいたことなんてすっかり忘れてしまった。だから気づかなかった。同じように、この足がすくむのも、終わるはずだと思う。ずっと続く物事はないから。わたし、あなた、それだけはあるようだけれど、わたしの中身は日々、変わり、流れているから。

変わったことといえば、祈ることをやめている。わたしは不器用で、生活のなかに祈りを求めれば、生活を脇に置いた祈りが分からなくなる。祈りの中身も日々、変わる。今ならどうだろうと考える。難しいことではない。たとえば、どこかが痛むのならば、その痛みが終わることを、あるいは、痛みに耐える強さを、その強さの行方を祈る。憶病になるならば、乗り越えられることを、そのように、わたしがわたしを信じられることを祈る。

なにか大きなものがやって来る気がして、恐ろしいとき、問題なのは、それが大難か小難かではなくて、押し潰されないでいられる自信がないことや、共に立ち向かってくれる存在を確信できないことなのだと思う。助けます、と、助けたい、を、全部受け入れられるならば、物事の困難さなど、問題ではなくなるのに。

いつかの嬉し涙は、みんなに対して流したい。共にあって、助けてくれるあなたへ、ありがとうなどと言って、泣いてみたい。そのことをこそ今は祈りたい。