156 太古に無くしたもの

お手紙は考察でも発信でもなく、お手紙でしかありません。誰かに分かってもらおうと書くものではありません。ですから何でもないのです。誰に向けてもいないのです。

私たちは、と、主語を複数にして、話したくなる感覚が強くあります。これは私自身に宛てているのと、私自身から繋がるもろもろの存在に結果的に伝わっていくというところも含めて、二重の意味になります。私たちは淀みを洗い流さないといけません。どうしようもない人たちが増え、我慢ならない状況になっているのは、もう明らかに目に見えていることですが、それを嘆いたり、怒りをぶつける前に、もっと源流に近いところから変えるべく努めないといけないと受け止めています。私たちは変わっていくところにあります。変化でもあり、大きな洗いなおしです。それを受け入れようではありませんか。もっともっと、素晴らしい仕組みにすべてが組みなおされるところです。

大きな引越しのようなものです。古いもの、壊れているもの、要らなくなったもの、見たくないからしまい込んでいたものを、一旦出さなければ、そして見なければならない。この作業は苦しく感じることもありますが、それは錯覚で、本当は苦しいものではないのです。クリアになり、光に向かうということ、闇が払われるということですから。結論を見失わない限りは、これは苦しみではなく、むしろ、爽やかな新しい風と捉えてみてください。

解き放たれ、洗われる。一層美しくなる。

もう、苦しいのは終わりました。これまでの苦しみは、それはかわいい思い出の記念品として、小さな形にして持っておくくらいのものになりました。それは煌めく彩りとなって、新しい部屋をささやかに飾ってくれるでしょう。

淀みを洗い流したあとに、光り輝く宝物が、太古の昔から甦って発見されるかもしれません。それは無くしたと思っていた愛かもしれません。私の中にもそういうものがあります。ない、ない、ないと叫び、どこからか貰えないものか、拾えないものかと、ゾンビのようになって彷徨っていましたが、それは古い家の奥のほうにあって埋もれて分からなかっただけなのかもしれないのです。今、まだ埋まったままの宝物が春の気配を漂わせているように感じられます。