151 誠実に育てよ

無理させたいわけじゃなくって、そうさせちゃいけないって、誰よりもわかっていて、でも、もっともっとできるのにって、悔しいくらいに思う。好きだからこそ、信じてるからこそ、思う。

もう十分なものを手に入れているけど。そうじゃなくて、どうせこれくらいしかできないからって、見くびって諦めて、それで、これで十分だとか嘘をつかないでほしい。

世の中どいつもこいつもちょっとした嘘つきばっかりで、表と裏があって、あたかも、隠すことができることを大人の作法かのように、立派な顔をしてる人ばかりだ。

傷つこうが、生きづらい人と思われたり思ったりしようが、清さを捨てたらいけない。

清さとはまっすぐ存在する意志のこと。

清さでもって努力すること。

我慢とは違う。我慢は、腹の底で納得いっていないことを見ないように隠して、自分を苦しめて毒に晒すことを言う。

それは美徳じゃない。清くない。

何ができていようが、できていなかろうが、

波動よく軽くいられようが、重くネガティブになろうが、

穏やかだろうが感情的だろうが、

自分にまつわって生まれるすべてのことについて、まっすぐ立ち向かい、見ることが強さであり、清らかさであると思う。

まだ欲しいものもやりたいこともあるくせに、それが欲望だろうが高貴な目的だろうがどちらでも同じで、これで十分ですとかいって聖人のふりをしてはいけない。

人はそう簡単に聖人にならない。

生きている間は誰でも人である。

自分を小馬鹿にしているだけの自己卑下は、足ることを知ることとは違う。

そんなつもりになって許された気になるが、まやかしである。

わずかばかり自分を慰めて、気を紛らわせているだけで、やっていることは嘘つきである。

まず嘘をやめないといけない。

細かい嘘をつくのを慎まないといけない。

嘘といえるのは、自分にまつわることである。

たとえば「あっ、あの人は嘘をついている」と、気がついてしまったとして、その時は、その人が嘘つきなのではなくて、苛立ちや不満を少しばかり誤魔化して、自分のほうが正当なことを言っているから、これは高貴な指摘であって、感情的な、一次的な、人間的な反応ではないかのように誤魔化しているその自分自身ののほうが嘘つきなのだ。

嘘を慎む気持ちがなければ、人は、大人になれない。

どうか誠実であるべく努力して、もっともっと本当の力を使って貰いたい。