35 陶酔

本物を見たことがある人にしか、偽物と本物の区別はつかないだろう。

ある人はほんとうに「本物」を見てしまった。ひと目見たらもう忘れられるわけがない。
紛れもない本物だった。
ただ、それを見る機会は一度きりしかなかった。
幸運というほかなかった。
それからというもの、心のどこかで、その姿に恋い焦がれ、追い求め続けることになったが、
本物の輝きがどんなにすばらしかったか、
どんなに言葉で説明しようとしても、周りの誰にも伝わらなかった。
みんなが美しいと持て囃すものはすべて偽物だった。
彼以外の誰にも、それはわからなかった。
偽物にだって美しさはある。
でも、本物を知ってしまった人にとっては、霞んで見えるものだ。
次第に彼は、疲弊しはじめた。
この上なくすばらしいものを知ったばかりに。
それでいて、そのすばらしさが、もはや過去の記憶でしかないと感じていたから。
最初から何も知らないほうが幸福だったか?
とてもそんな風に思うことはできなかった。
それくらいにそれは美しかった。
もう黙ってはいられないくらい。
だから、彼はそれを見たことを忘れようとすることを諦めた。
美しいものを知った、そのことは幸せだと、ただそれだけのことを受け入れた。