36 愛する人のひとりへの手紙、祈り、その3くらい

認められない、認められなかったという思いを抱えたままの子。本当はできたのにできなかった、そういう無念さから逃れられない子。
苦しいこと。何年経てば、どれくらい月日が流れたら、終わりにできるだろう。本当にその日その時に戻って、「リセマラ」し続けなければいけないと、執念を抱きつづけている。要はその時間、その時空にまだいるわけだ。本当はもう苦しいのに。
たとえば、ほんのわずかな隙から、無敵のチャンピオンみたいな強い子が破れ、殺された。一歩バランスを崩したところでどこかから落ちて体を打ったとか。
それまでの完璧さが…一瞬でも崩れたことが受け入れられない。やることがまだあった、全部が途中だった、どうしてもこれだけは言いたかったことが言えなかったとか、思う。あるいは、自分の人生そのものを見下している。こんなんで終わるわけにはいかなかった。こんなん(人生)を絶対に見せるわけにはいかない(誰に?)…。
つまりは、こう言われたい。
あなたは、すごかった、無敵だった、他の誰よりも強かったよ、褒め称えるべきMVPだった、本当によくがんばったねと。そして、誰かからどんなに完璧だったと言われても、あなたはひとつの欠けが気になる。何万年でも気になる。その何万年ものあいだ、あなたを愛している私たちは置いてけぼりだし、
そもそも…、どの人生が、どの人生より良いとか、悪いとか、そんな比較のために、人は生まれるわけではなく、
どんな経験をしたくて、どんな勉強ができた、というような、こういうことは、ひとりひとり、本当にひとりひとりが、自分の力で、意味づけができる。"出来の悪い"人生など、あるものか。悔しさがあるのなら、悔しさそのものが、今手にした宝だというのに、それが要らないとでも?…。
あぁ、たとえば、世の中で多くの人に名前を知られたり、称賛されて、才能を発揮し、天才かのように扱われ、その能力を認められている人がいるとして、そのような人には才能があるが、そうならなかった人や、あなたには、才能がないか、もしくは、才能があったのに、表に出せなかった人だと、思うだろうか?
こんなのは全部、醜い競争だ。フェイクで、方便で、今まで、やりたかったからやっていただけの、化けの皮みたいなものだ。
あぁ、おしまいにしてよ、もう満足で、もう、この世界観が、これ自体が、楽しかったね、面白かったね、貴重だったね、本当に宝物だったね。うまくいかなかったことも美しかったよ、あなたが生きたことは美しかった、あまりにも美しかったよ。
それで、私が思うのは、全部の人に才能が与えられていて、価値も与えられていて、これを使う人がいたり、そんなに使わない人がいたり、目立つことを選ぶ人がいたり、そうでない人がいたり、まったく色々自由だけれども、本当に生まれ持った才能を、「使うことを選んで、使う」ことができたら、それ自体が幸福で、認められないから不幸とか、そういうことじゃあないんだよね。よくやった、美しかったと言われたいのであれば、自分で自分に言ってあげたらいい、受け取ったらいい、でもとか、なんとか、言わないでさ。結局、美しいのだから、しょうがないじゃないかと。今、もう大丈夫になって、そうしたら、この先、また無限に色々なことができて、ずっとしがみついていた時空に居続けるよりも、軽くて、幸福で、爽やかな風が吹き、今まで苦しかったのも、全部宝石になり、ただでさえ美しかったのに、もっと美しくなってしまうよ。すばらしいことだらけだよ。
大丈夫、きれいだ、がんばりやさん、そんなところが、みんな好きだよ。あなたのもともと持っている、その性質こそが、美しいよ。大事にしてね。それこそが成功なんだから。もう悔しく思わないでね。
ありがとう。