18 やめていくことたち

毎分、毎秒、一瞬の一瞬に、風の音のように当たり前に流れている。ジャッジ。おしつけ。罵倒。
上手くやらなければと思うことをやめたとしたら…。ジャッジをされなくなったら、上手くやる必要もなくなる。そして、誰かに上手くやれと要求することもなくなる。何者にならなくても良くなる。過去にできなかったことも、責めずに良くなる…だって、判断されないのだから…。私は何でなくてもよくなる。誰かを馬鹿にすることもなく、馬鹿にされることもない。誰かを辱めることもないし、辱められることもない。
もう消耗する必要がなくなったら、わざわざすり減らしたり、すり減ることに近づいていくこともなくなる。
何に傷つかなくても、傷つけなくてもいい。
せっかくの自分のエネルギーを、どこかでぜんぶ消耗していかなくてもいい。もう、そうなる人と一緒にいなくてもいい。無くなるまで誰かにどんどん分け与えなくてもよくなる。配らなくてもよくなる。
漏れてしまう蓋を自分からあけたり、ひたすら配り歩いてしまうのは、愛情でもなんでもなく、どうしても自己破壊したいという、例のアレなのですが、そうしたくなってしまう元々も、ジャッジの世界観に居るからなんだと。
あなたを裁く権利があなたにない。おまかせすれば良い。わたしを傷つける権利がわたしにない。わたしはわたしのものではない。わたしを傷つけるのは身勝手だ。たずねれば良い。自分のものなどひとつもない。