158 202303 方針

いろんな人が、口々にいろんなことを言うのを、自分の中に入れて吸収する前に、一旦留めおいて、距離を取ろう。

自分の感覚をとれるようになることが大事だ。自分で考えること。

そして自分というものをひとつにすること。バラバラだったものを集めて繋げること。そのとき、変に遠慮しないこと。このくらいでいいかと、そこそこにしないこと。それが、丁度いいバランスのために、そこで終わらせるだけなのか、それとも、怖いからとか、自分自身のことがそこまで信用できないからとか、逃げたいがためにそこそこにしておくのかで、話は変わってくるけれど、どちらなのかくらいは分かるはず。

なあなあにしないことだ。今このときに、感性を有耶無耶にしておくことほど、勿体ないことはない。

それから、言う必要もないことかもしれないが、自分の人格やエネルギーをひとつに統合していくときに、排除の気持ちにしないこと。排除という極端な感覚こそ、終わらせようとしているものの正体なのだから。

「これさえしていればいい」という考えも、排除と同じ性質のものである。なぜなら、これさえしていれば大丈夫という思想は、それをしない他人と自分とを、両方とも排除することに繋がるからである。それは、バランスを欠いていて、安寧にはほど遠い感覚。信じるということは、そのような、形を変えただけの排除主義とは、まったく別である。いつまでもそうしていては、幸せは来ない。

私は、みんなに、もっと幸せになってほしいと思っている。そのために真剣である。

長い冬が終わり、春を迎え、花が咲いた。見える世界が変わってくることも、それに伴って、選ぶものや、好むものや、行動までが変わってくることも、自然な流れの中のことだと感じるならそのままにしておけばいい。

人から受け継いだ考えは、それがどれだけ、道徳的にも、倫理的にも、生きていくために大切だと思われたとしても、借りたものに違いない。借りたものは、感謝の気持ちで受け継いだ上で、自分の中でもう一度、自分のものを作る必要がある。

157 天恵を捨てず

どうか何が起こっても未来を見るように。光をとるように。

すべての物事もすべての能力も、使いよう、考えよう。一方だけの見方しかできないものなどない。どちら向きに使うかはぜんぶ選べることだ。

それでも怖いとばかり思ってきた。

恐ろしいことのほうばかり思い浮かべてきた。

刃物があるならば、人を刺すかもと、そればかり考えた。

刃物で何が作れるか考えるよりも先に。

苦しみをやりたいなら、闇の見方をとればいい。苦しみをやめたいなら、光の見方をとればいい。

どちらかの側面が無くなって片方だけになったりはしない。

あなたがスイッチをすればいい、使い方を決めればいい。

天から与えられた持ち物を捨てる必要はない。それを捨てることは自分を捨てることになるのだから。

156 太古に無くしたもの

お手紙は考察でも発信でもなく、お手紙でしかありません。誰かに分かってもらおうと書くものではありません。ですから何でもないのです。誰に向けてもいないのです。

私たちは、と、主語を複数にして、話したくなる感覚が強くあります。これは私自身に宛てているのと、私自身から繋がるもろもろの存在に結果的に伝わっていくというところも含めて、二重の意味になります。私たちは淀みを洗い流さないといけません。どうしようもない人たちが増え、我慢ならない状況になっているのは、もう明らかに目に見えていることですが、それを嘆いたり、怒りをぶつける前に、もっと源流に近いところから変えるべく努めないといけないと受け止めています。私たちは変わっていくところにあります。変化でもあり、大きな洗いなおしです。それを受け入れようではありませんか。もっともっと、素晴らしい仕組みにすべてが組みなおされるところです。

大きな引越しのようなものです。古いもの、壊れているもの、要らなくなったもの、見たくないからしまい込んでいたものを、一旦出さなければ、そして見なければならない。この作業は苦しく感じることもありますが、それは錯覚で、本当は苦しいものではないのです。クリアになり、光に向かうということ、闇が払われるということですから。結論を見失わない限りは、これは苦しみではなく、むしろ、爽やかな新しい風と捉えてみてください。

解き放たれ、洗われる。一層美しくなる。

もう、苦しいのは終わりました。これまでの苦しみは、それはかわいい思い出の記念品として、小さな形にして持っておくくらいのものになりました。それは煌めく彩りとなって、新しい部屋をささやかに飾ってくれるでしょう。

淀みを洗い流したあとに、光り輝く宝物が、太古の昔から甦って発見されるかもしれません。それは無くしたと思っていた愛かもしれません。私の中にもそういうものがあります。ない、ない、ないと叫び、どこからか貰えないものか、拾えないものかと、ゾンビのようになって彷徨っていましたが、それは古い家の奥のほうにあって埋もれて分からなかっただけなのかもしれないのです。今、まだ埋まったままの宝物が春の気配を漂わせているように感じられます。

155 20230313

誰しも一人だけで失敗することはない。声をかけてくれる人はいる。気にかけてくれる人はいる。救おうとしてくれる人がいる。愛ゆえに助けようとしてくれる人がいる。でもその人のことなんて、まったく目に入らずに、堕ちていく。もう、敵しか見えなくなっていく。絶対に敵だけではなかったはずなのに。その後はもう、いくら思い返しても、記憶がどんどん書き換わり、一人の被害者たる自分、そして、その当時、誰一人味方はいなかったという感覚だけが、月日が経てば経つほど、体に染み込んでいくようになる。ある日自分が気づくまで。敵だらけだと思っていた景色も、画角が狭くなっていただけで、本当はそこにもかしこにも味方はいたこと、隣で愛してくれる存在のいたことに気づくまで。

154 花が咲くとき

人が通らない場所だからと咲くのをやめる花がないように、誰も足を踏み入れたことのない秘境にも風は吹き雨が降るように、たとえ人類が絶えても天が変わらず在るように。

人が観測しなければその物は存在しないというような考えは、人間しか考えることができないことだという意味では愛らしさすら感じるほど、可愛らしいほど愚かだ。宇宙とか神とか空とか、人が名前を付けて呼ぶ前からそれらは在る。誰が観測しなくとも構わない。時間を人が観測する必要はない。宇宙に時計はないし、宇宙が時計みたいなものだ。それは永遠に観測し、永遠に記録する。もう誰ひとり覚えていないことでも、正確に覚えている。

たとえば、あなたが誠意を尽くしたが、誰にも感謝されなかったことも。

逆にあなたが尽くされたのに感謝できなかったことも。

あなたも、あなたと関わり合った人間も、みんな忘れてしまっても、それが覚えている。それは正確で完璧な仕事である。だから記録に関しては、それに任せることにしよう。

人間が、あえて、時間のことを細々と考える必要はない。過去でも未来でも、すべて同じように、それが収納してくれるのだから。人間にとっては、もう過去のことだからとか、未来のわからないことだからとか、時間に関する考えをこねくり回すことをやめて、ただ今、まとめて、そこにあるものを、まっすぐに観るよう、まっすぐに感じるよう、集中するほうがよっぽど幸せである。

153 闘うな、負けるな、祝福せよ。

 

このような意味の分からない世界で生きている事実をまず称えたいではないか。

私は祝福する。

他の誰があなたに何を言おうとも。

たとえその場に何百、何千、何万人という人があなたを責めようと。

それが誤解であるならば、私一人だけだとしても祝福しよう。私は信じよう。

他に誰もあなたを理解しなくとも。

それが仲間ということだ。

私達は仲間がいなければ余りにも心許なくこの世界ではとても生きていかれないだろう。

仲間は時空も時代も越えて、祝福し、祝福され、恩に恩を返しながら、支え合う。

その絆の強さは計り知れない。

仲間は目には見えないかもしれない。

でもここにいる。あなたを私が祝福する。私はあなたに祝福される。

信じよ。負けるな。祝福せよ。

泣いても折れるな。傷ついても負けるな。

誰のことも自分のことも信じられないとしても仲間を信じなさい。

仲間はかつてあなたから貰った恩恵を忘れない。

その光を、たとえあなたが忘れたとしても忘れたりしない。

152 与えられ

必要なものは与えられる。

でも…。

それがどういうふうに必要なのかを正確に理解できないのが問題なんじゃないだろうか?

美しいものが見たいと願う前に、まず目が見えるようにつとめるのが先なんじゃないだろうか?

美しいものを感じる気がない人には何を見せても無駄だと判断されるんじゃないだろうか?

小さな美しいものが分からない人のところに何もやってきやしないんじゃないだろうか?

天は正確にあなたを見定める。あなたが自分で感じるよりもよっぽど正確に。

天はその人の器に合わないものを天から降ろしてはくれない。

あなたが受け取るとき、それは既に許可されているからだともいえる。

一方で前借りのような恩恵が降ってきている。あなたはこれをどうするかと、ずっとたずねられている。