161 極間の遊び場

引き潮、満ち潮のように、目の前にある現実が変わらないとしても、その感覚、体感だけが、毎日、極のあいだをゆらゆらと揺れる。

私のことを例えてみよう。ひとつには、もうこんな生活はとても耐えられない、これではあまりにも苦行に近く、一日でも早くここから自分を救い出すために、光を見出さないといけないという、地獄の底のような感覚。もうひとつには、今この場所で生きていること自体が、はるか昔からあこがれていた甘美な夢であり、今まさしくその夢を叶えていることに、魂から満足し、幸せで、不足なく安堵しているという感覚。このふたつが極であり、合間のところを、楽しくおかしく揺れるあいだに時が流れていく。どちらの極も自分にとって真実だ。

私は生来、欲ばりで、曖昧なものは嫌いで、いいかげんな経験をするようなら、地獄のほうがいいのにというたちだった。むろん、地獄がなぜ地獄かは、反対のものを味わわなくては分からない。

極のあいだをどれだけ動きまわっても、ほとんどは内側の世界の話だった。だから、他人に見えないところの中身だけが、ぐるぐる万華鏡のような人間になった。

これは趣味みたいなものだと思う。遊んでいるだけなのだ。現実に何をするかとか、何が起こるかとは、まったく別の、楽しい趣味なのだ。