45 乱文ながら、鎌倉で思い出したあれこれ。

したいならすればよかったこと。好きならば好きでよかったこと。やりたくないならそれでよかったこと。全部いまさらなのだけど、ずっと出てこなかったこと。傀儡の力で振り回されていた。一秒、一秒の、思うこと、感じること、ありのままの、あれやこれが、絶え間なく小さな裁判にかけられ続けているようだった。判決がどうなるかを伺い続けていた。そうして、他のことなど何もわからないくらい気が散ってしまっていた。人生どころじゃないくらいに。一体なんなんだ?ひとは、生きているだけで、心で色々なことをおもうが、おもうこと自体が、裁判沙汰なのだ。人間ならば、何のこともおもわないということは出来ない。もう、人間を辞めるしかないだろう。楽しんでいいよ、みたいなことを今更言う気はない。もちろん、許可はするけれども。楽しんでいい、というよりも、何かをおもってもいい、感じてもいい、と。人間であってもいい、魂があってもいい、心があっていい、と。好きなことをやってもいいよ、などと言われても、ぽかんとする子がいる。そういうきらきらしたことよりも、なんも好きでなくてもいいよ、ぜんぶが嫌いと思っても、なにもやりたくはないと思ってもいいよ、と、そういうふうに対処したい日もある。